道徳と宗教の関係について
澤山 晋太郎
まえがき
私は理論物理学者であるが、大学院にいるときに、研究の世界がどうなっているのか分かった。そこでは自分がのし上がるためには他人を蹴落とすのが当たり前のような修羅の世界であった。自分はそれに対して、道徳などを考え始めていた。しかし、道徳というのは本来儒教の言葉で徳を積む道ということである。もっともふさわしい言葉は倫理であると考え始めた。倫理とは心のありようであるし、心はどうあるべきかを追求することだと思う。もちろん、日本人には道徳と言ったほうがなじみやすいかもしれない。その道徳の研究であるが、私は「道徳と宗教と法」と「日本人の民間信仰と思想」という本をもうすでに出版している。二つともgoogle play booksで読むこともできるし、iphone やiPadでも読むことができるようにしてある。そちらの二冊はebookland社という出版社を経由してある。実は道徳と宗教の研究をしていたのは今から四年ほど前で、その頃は日本人は宗教の知識など全く知らなかったし、宗教と道徳に関係があるんだという認識もなかった。しかしながら、自分がそういう知識を普及するにつれ、次第に日本人は道徳と宗教にかなりの関係があるのだと分かるようになったと思う。ちなみに、倫理とは心がどうあるべきかであり、これは科学的に観測不可能なため、非科学的な何かに依存しないとならない。それが宗教であったり、多数決であったり、感情であったりする。この道徳や倫理の研究はヨーロッパでは古代ギリシアでソクラテスが始め、ニーチェに至るまで、研究がされていた。ちなみに、ソクラテスと同じ時代に釈迦や孔子も倫理というものに関して深く追及していた。釈迦は仏教を始めるし、孔子は儒教を始める。 しかしながら、多くの人は道徳やべき論を展開するときにバックグラウンドとなる知識が少ないと思えてくる。世の中には、「○○である」という断定表現と、「○○すべきである」というべき論が存在するが、どうやら多くの人はこの二つを混同しているように思える。前者は科学で扱えるが、後者は科学では扱えない。なぜなら、心がどうあるべきかというのは観測できないので、科学では扱えないからである。もちろん、科学の前提には観測や実験があり、それがなければ科学とは言えない。数学などは実験や観測を伴わないので、科学ではない。しかし、科学を扱う言語ではある。そのような語学と宗教というものには実験や観測を伴わない。
まず、私はこの本の中で、道徳の哲学史を扱いたいと思う。これは自然と西洋風の道徳の哲学史になってしまう。次に宗教社会学を扱う。そこでは道徳と宗教にどのような関係があるのかを理解することができる。次に道徳の哲学を扱い、次に道徳と法の関係について述べる。そのあとで、日本人の宗教と道徳について述べ、さいごに日本で起こっている道徳の問題について述べる。主に現代ではアメリカから合理主義が日本に到来していて、日本にもともとあった儒教的な考え方と対立するようになっている。それが現代日本の道徳上の重要問題である。
目次
1:道徳の哲学史
2:宗教社会学
3:道徳と法
4:道徳の哲学
5:日本人の宗教観と思想
6:まとめ
1:道徳の哲学史
道徳を研究し始めたのは今から非常に古い時代のことで、今から2500年前にソクラテス、釈迦、孔子の三人が、ほぼ同時期に道徳を研究している。ソクラテスは哲学の起源になり、哲学が学問の起源なため学問の起源になっている。釈迦は仏教の起源であり、孔子は儒教の起源である。ただ、現在孔子研究が白川静さんを中心に進んでいて、実は孔子は聖人君子のような人ではなかったと分かり始めている。ただ、どうしても、ソクラテスを中心に道徳の哲学史を語ることになる。
ソクラテスは無知の知で有名な人であり、「汝無知であることを知れ」と言った人である。物事の本質を疑うという現代風に言えばクリティカルシンキングを編み出した人である。簡単に言えば、分かった気になっている人は多いが、本当に分かっているかどうかは分からない。少し勉強して簡単に分かった気になってしまわないようにと言っている。しかし、そのソクラテスであるが、延々と道徳に関して研究をしていた。しかし、ある時に一人の青年に次のように話される。「ソクラテス先生は道徳について考えているようだけれども、道徳とは心のありようではないか、それならば科学的に観測することができずに、科学的に真偽の決定ができないのではないか?」と聞かれる。その時にもうすでに高齢だったソクラテスは次のように答える「これは東方で聞いたことだが、世の中には生まれ変わりというものがあるらしい。それによると人間は前世で神だったことがあるからその真偽を決定できる」と。ちなみに、ここで東方で聞いたこととは輪廻という考え方だと思う。輪廻とは古代インドにある思想で、アーリア人が3000年ほど前に持ち込んだと思われている。しかし、ソクラテスの答弁はまるで答えになっていないし、青年の言っていることはまるで正しい。今後ヨーロッパではニーチェに至るまで、この答えを哲学で追及していく。しかし、現代でもその答えは出ていない。哲学上の重要問題の一つである。
その後でプラトンが登場する。プラトンはソクラテスの弟子で、政治学の父である。哲人王というありとあらゆる学問を極めた人による独裁政治がもっともいいと言った人である。例えば、この哲人思想であるが、ドイツではヒトラーがそのような人である。プラトンは道徳の問いに対して、たまに神が人間に憑依するからと答えている。確かに、ギリシア神話では、神が人間に憑依して、神託を下すようになっているから、当時のギリシアの発想では当たり前かもしれない。
次に登場するのはアリストテレスであるが、もうすでに彼は道徳に関しては答えなかった。しかしながら、法によって国を支配しようと言っていて、法学の父になっている。つまり、人間の道徳による政治よりは法による支配の政治のほうがいいと言っている。後は、プラトンの言っていた哲人に対して、そういう人はなかなか出てこないからと言っている。
その後で、アレクサンダー大王が登場して、東方遠征をやって、ギリシアは完全に消滅するのだが、ギリシアの学問は東方(今のイラク辺り)に残る。ヘレニズム文化といって、オスマントルコなどのイスラムの国々にその技術は受け継れた。その後で、ヨーロッパにはローマが登場する。ちなみに、当時はゾロアスター教が存在していて、すでに善悪の概念があったとされている。
ローマ時代にキリスト教が入ってくる。ちなみに、それ以前にはユダヤ人がユダヤ教を普及していたのだが、ローマ時代になって、ローマにキリスト教が入る。ユダヤ人はセム系の民族と言われていて、シュメールの時代から存在している。ユダヤ人は遊牧民族で、いつ滅ぼされてもおかしくないような生活をしていて、それによって終末思想を信じるようになって、ユダヤ教が誕生した。キリスト教もユダヤ教の一つである。キリストがローマにユダヤ教を普及していたのは、紀元30年くらいと言われているが、当時はローマに受け入れられずに、最終的にアウグスティヌスがローマにキリスト教(カトリック)を入れる。アウグスティヌスは320年ころにコンスタンティヌス帝とミラノ勅令を結び、カトリックをローマの国教にしている。アウグスティヌスは神学大全(全十巻)を書いている。ただし、当時のローマにはユダヤ教は根付かづに、ユダヤ教をある程度改ざんしたものをキリスト教として、ローマに普及させた。その反動でイスラム教というユダヤ教により近い宗教が後になって誕生する。
ローマは西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂して、西ローマ帝国はすぐに滅び、東ローマ帝国はビザンツ帝国となり、オスマントルコとコンスタンティノープルを巡って戦争をする。コンスタンティノープルはキリスト教の五大総本山のうちの一つであり、現代ではローマにしか残っていないが、当時は五つの総本山があった。そして、ビザンツ帝国とオスマントルコの戦争によって、ヨーロッパ諸国が十字軍を遠征させたので、イスラムの地域にあったヘレニズム文化がヨーロッパに逆流してくる。これがルネッサンスである。その後で、ヨーロッパの科学などが発展していく。
キリスト教はフランク帝国やイギリスに受け継がれていって、フランク帝国はフランス、ドイツ、スペインを生み出す。また、イタリアにはローマ法王がいて、ヨーロッパの重要な決定権を持つようになる。しかしながら、哲学は暗黒時代になる。中世ヨーロッパが暗黒時代であったということは最近は否定されているが、道徳の哲学においては非常に遅れることになった。キリスト教道徳の暗黙の了解の時代が長かった。もちろん、12世紀ルネッサンスなどで、ヒューマニズムがあったことは確認できるのだが、道徳の哲学では非常に遅れてしまった。
後になってドイツではルターやカルヴァンが宗教改革を行う。それまで腐敗していたカトリックに対して、福音という派閥を立ち上げる。当時のドイツの農民戦争と絡まって、そのような宗教改革が行われる。カトリックでは免罪符の発行などをやっていて、当時のヨーロッパではかなり腐敗していた。現代でもカトリックの教会には懺悔質があって、懺悔すれば罪が許されると思っているところがある。福音では懺悔しても罪は許されないと考えている。後はルターは天職という概念を作り出して、天から与えられた仕事をやっていれば、死後天国に行けると言って、それが資本主義と結びついたとも言われているが、現代では否定されている。
そのようなドイツ(当時はプロイセン)で、カントが登場する。カントはキリスト教の暗黙の道徳から抜け出した初めての人である。カントは純粋理性批判を書いている。そこでは純粋なる理性を批判している。つまり、理屈で道徳を考えていくと、道徳は破たんしているので、あまり理屈で考えないようにしようと言っていて、キリスト教を否定すらしなかったが、そのような非科学的な宗教も道徳のために必要と言っている。ちなみに、カントの純粋理性批判は難解な書物で、その解説書を読んだほうがはるかにいい。私もカントの意見に大賛成である。
その後で、ニーチェが登場する。ニーチェはツァラトゥストラ、道徳の系譜、善悪の彼岸などを書いている。ツァラトゥストラでは冒頭で神は死んだと書いてあって、キリスト教を全否定している。ただ、どうやら仏教の影響を受けているようで、ニーチェの言う超人とは仏陀のことであるらしい。ちなみに、釈迦は仏陀ではない。釈迦は努力して仏陀という精神的に非常に強い人になっただけである。道徳の系譜では道徳の歴史が書いてあって、キリスト教に取り込まれている善悪という概念がゾロアスター教から来ていることを書いてある。また、善悪の彼岸では、その善悪すらも宗教道徳なので、そのような宗教道徳から抜け出そうと言っている。しかしながら、宗教道徳から抜け出したら、なぜ人を殺してはいけないかも分からないようになっている。フランクフルト学派がそのいい例である。あの有名なハーバーマスも、なぜ人を殺してはいけないのか、答えることができなかったし、宗教を使えば言えると悩んでいたそうである。ちなみに、フランクフルト学派はマルクスが創始者であり、無神論の派閥である。ニーチェは宗教道徳というものを否定した人だと思っている。
しかし、ニーチェ以降は道徳を哲学的に扱うのをやめてしまっている。ちなみに、ニーチェ以降無神論者が増えて、不条理文学が生まれてくる。一神教道徳のもとでは不条理という概念がそもそもなかったのだが、ニーチェ以降はヨーロッパに不条理という概念が生まれる。カミュ、カフカ、キルケゴールなどが有名である。それ以降のヨーロッパでは現代思想という哲学が流行るようになる。これはソシュールの一般言語学講義と、フロイトの精神分析から始まって、現代思想では心と言語を扱うようになる。最近だと認知心理学や認知言語学と呼ばれる学問がこの分野である。しかしながら、道徳の問いには一切答えないようになってしまった。
ただし、最近になってロールズが正義論を書いて、多数決道徳を否定するなど、新たな道徳へのアプローチも始まっている。
2:宗教社会学
ここでは宗教社会学について触れたい。ここで扱うのは、一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)、仏教、儒教である。この中でも、キリスト教、イスラム教、仏教は世界の三大宗教の三つである。
2-1:一神教
まず、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神を信じでいる。ヤーウェとアッラーは同じものである。そもそも、初めにユダヤ教が生まれて、次にキリスト教が生まれて、次にイスラム教が生まれるようになっている。まずは初めにユダヤ教から説明したい。
一神教に共通するものは終末思想である。それはユダヤ教に起源をもつ。ユダヤ人はセム系の民族と言われて、古代メソポタミアでは北部で遊牧民族をしていた。ただ、ユダヤ人のバビロン捕囚、エジプトに閉じ込められることなどを考慮すると、ユダヤ人などの遊牧民族はいつ淘汰されてもおかしくないような状態が続いていた。そこで、生まれたのが終末思想である。つまり、ユダヤ人最後の日が来るときに、神が現れて助けてくれるという思想である。これはキリスト教やイスラム教にも引き継がれて、人類終末期に、メシアが現れて、人類をすべて生き返らせて、最後の審判をやって、天国に行かせるか、地獄の業火で殺すかの二択という思想である。キリストとイスラムはユダヤ人だけでなく、全人類を神が救うようになっている。神が人間を生き返らすので、向こうでは土葬になっている。日本人のような生まれ変わりとは違う、生き返りを信じている。
ところで、この最後の審判であるが、誰が助かり誰が救われないのかは神のみぞ知るということになっている。このように人間の知らないことを知っているという概念が全知という概念であり、日本人には理解しがたい概念である。どうすれば、救われるのか分からないので、キリスト教の人は自堕落になってしまう。特に道徳的な正しさは人間が知りえないから、神のみぞ知っているというように扱われて、キリスト教の人は自堕落になってしまう。ちなみに、キリスト教では福音という派閥があり、そこでルターが天職という概念を開発したので金儲け主義と思われている。そのあたりのことはマックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に書いてあるのだが、現在は否定されている。同時期にヨーロッパに伝わった中華思想の影響がヨーロッパを資本主義にしたと考えられている。たとえば、中国には節約の精神があるが、これがあると銀行にお金が集まり、投資ができるようになっている。
ユダヤ教はユダヤ人しか救わないので、キリスト教が生まれてくる。ただ、キリストが言っていたのはユダヤ教であったので、アウグスティヌスが古代ローマにカトリックを普及させている。320年頃の話である。その後でカトリックは免罪符を発行するなどして、腐敗して、ルターやカルヴァンが福音という聖書原理主義のキリスト教を作る。ちなみに、イギリス国教会などはイギリスの王室に都合のいいように改ざんされている。また、ロシア正教会は、ビザンツ帝国のキリスト教を受け継いでいる。福音のことを一概にプロテスタントなどと呼べない。キリスト教において非常に重要な概念は原罪であったり、博愛であったりする。
キリスト教を作ったアウグスティヌスであるが、ローマに受け入れさせるためにユダヤ教にかなりの修正を加えてしまった。その反動としてイスラム教が誕生してくる。例えば、イスラム教では偶像崇拝を禁止している。キリスト教ではキリストの絵画などが盛んであるが、イスラム教ではそういうことがない。ちなみに、三つの宗教ともモーセの十戒を信仰していて、モーセの十戒は神が人間に与えた唯一の道徳と思っている。後はイスラムでも旧約聖書や新約聖書の一部を信仰していて、それがコーランに書かれている。後はイスラム教は中東にあった習慣法を使い、その中で目には目をという有名なものが入っている。イスラムではコーランや習慣法を用いた、法解釈があって、イスラム法学者がいる。また、イスラムでは宗教的指導者と呼ばれる人がいる。
そして、この一神教であるが、同じ神を信じているのに、何が違うかというと預言者が違う。ユダヤ教ではアブラハムが預言者で、キリスト教ではキリストが預言者で、イスラム教ではムハンマドが預言者である。聖書と言っても旧約が大元に存在していて、その中で、もう神は登場しないけれど、預言者は登場するということになっている。モーセも重要な預言者の一人である。同じ神を信仰するのは当然として預言者の教えに従うのが一神教である。ちなみに、旧約や新約の約は約束の約なので、神との契約を意味する。つまり、新約聖書とは神との新しい契約を意味する。
非常に重要な概念でキリスト教には罪という概念がある。罪というか原罪という概念である。これは人間が弱いために他人を傷つけるからもともと罪を背負っているという概念である。もともと、人間が弱いから人を傷つけたり傷つけられたりが当たり前になって、それから嫌いな人を好きになろうという博愛という概念が生まれる。
このような一神教の世界には古代メソポタミアの神々が天使として吸収されていたり、ギリシア神話などの神が悪魔になっていたりする。また、悪魔の中にも知恵をつける悪魔がいて、グリゴリ族と言われるが、彼らを信仰する宗教もある。それがフリーメイソン信仰であって、有名な小説だとファウストがある。つまり、ファウスト博士は悪魔に魂を死後やるという契約をしたために、超越者のような力を保有することができるという話である。ちなみに、ファウスト博士はそのようなオカルト学では実在の人物である。
一神教として同じことは同じ神を信じていて終末思想を信じていること、違うことは預言者が違うということである。後は一神教道徳ではどういう行動が正しいのかは神だけが知っているとなっている。
2-2:仏教
仏教は今から2500年ほど前に釈迦がインドで始めた。仏教とは仏陀になる教えであって、仏陀とは精神的に強い人であったり、精神的に安定している人のことを言う。主に四法印というものを信仰している。四法印とは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦の四つである。ここで、一切皆苦から始まるようになっている。つまり一切のものは苦痛であるけれど、なぜかというと、諸行無常だからということである。諸行無常というのは世の中は移ろい変わるというもので、世の中が変化しているから人間に苦しみが生まれるということである。また、諸行無常ではそのうつろい変わるものの中でも、普遍的なものを見つけよとなっている。さらに、諸法無我であるが、ありとあらゆる教えは無我の境地に達することという意味である。そのようにして、無我の境地に達したのならば、涅槃寂静という非常に精神的に落ち着いた状態になることができるという教えである。この四法印を悟れば、人間は仏陀になることができる。ただし、無我と言っても、無我がなんなのかわからないので、竜樹(ナーガールジュナ)という人が色即是空という言葉まで作ったが、これもまた非常に難解な言葉になっている。
仏教は釈迦の死後100年くらいで上座部と大乗に分裂している。中国、朝鮮半島、日本に来たものは大乗仏教である。後はベトナムも大乗仏教の国である。上座部の国は、タイやスリランカなどである。上座部仏教は悟りの開き方は、四法印しかないという教えであるが、大乗の思想では悟りの開き方は千差万別あるという考え方である。一説には八万四千通りあると言われている。日本は大乗の国なので、色々な宗派が存在している。ただし、現在の日本仏教は大乗ですらなく、ただの葬式仏教になっている。
また、一時的に仏教は古代インドの神々を取り入れてしまって密教に変化している。今あるチベットの仏教は密教仏教であるし、それが形を変えて現代のインドの宗教ヒンドゥー教になっている。
また、仏教には輪廻思想というものが入っている。輪廻には六道あって、天道、人道、畜生道、餓鬼道、修羅道、地獄道の六つである。天道は神々の世界で、これがあるためにソクラテスも人間は生まれ変わって神になれると言っている。人道とは人間界のことで、畜生道とは動物界のことで、一方的に食べられる存在のことを言う。餓鬼道とは飢えてなにも食べれない世界のことを言って、修羅道とは毎日戦争に明け暮れる世界のことを言って、地獄道とは本物の地獄である。
2-3:儒教
儒教とは孔子や孟子の教えを信じろという宗教であるが、世界の宗教の中では格差階級的な宗教である。つまり、子供よりも父親のほうが偉いだとか、父親よりも祖父のほうが偉いというように格差がある。これは官僚主義のために使われている。ちなみに、中国には儒教以外に道教というものもあって、中国で古来から信仰されている宗教だったりする。キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教で大体世界の宗教を網羅することができる。
2-4:色々な神話
色々な神話は教養としていい。例えば、ギリシア神話を知っておくと、星座の起源を知ることができるし、惑星の名前の起源を知ることができる。例えば、火星はマーズであるが、ギリシア神話では戦争の神である。冥王星のプルートは冥界の王であるし、ジュピターはゼウスのことを言う。また、北欧神話を知っておくと、週の曜日の起源を知ることができる。火曜日のことをチューズデイというが、チュースさんという神がいた。また、金曜日はフライデイであるが、フレイさんという女性の神がいた。水曜日はウェンズデイであるが、それはオーディーンの日ということである。また、エジプト神話を知ると、原子のアトムの語源がわかったりする。後は日本神話を勉強すると神社めぐりが楽しくなったりする。
3:宗教と法
法哲学には法とは最低限の道徳であると書かれてある。しかし、そのような道徳の根源にあるものは宗教である。道徳が科学的に決定できない以上、道徳には非科学的なものを使う。例えば、宗教であったり、感情であったりする。もしくは多数決である。この多数決であるが、功利主義と呼ばれている。つまり、最大多数の最大幸福こそ全てという考え方である。しかしながら、多数決で道徳を決めると少数派を迫害してもいいようになってしまって、それはロールズなどによって批判されている。また、感情道徳であるが、それだと嫌いな人を殺すのが大丈夫なようになってしまいかなり危険である。法の最低限の道徳の部分には少なからず宗教が使われている。
また、日本の憲法、民法、刑法はヨーロッパから輸入したものであるから、そういうところにキリスト教的な考え方が入っていたりする。日本の憲法はアメリカとフランスの憲法から作っているし、民法はフランスのナポレオン法典から取ってきている。また、日本の刑法はドイツの刑法から取ってきている。特に憲法の自由権が日本人には理解しずらいようになっている。自由権というものは17世紀のイギリスでロック、ヒューム、ホッブス、ルソーなどが言い始めて、世界初の近代憲法となったマグナカルタに書かれている。ただし、現代のイギリスは憲法を持たない国になって、習慣法が全てのようになっている。この自由権から社会権を導くようになっているのだが、日本人の場合は自由権を理解できずにいる。この自由権であるが、神が絶対的に保証するようになっている。この神の全知と全能の概念であるが、日本のような多神教の国ではなかなか理解できないようになっている。例えば、自分に自由があって、自由をどこまでも追及していくと、他人を殺害する自由まで手に入るが、それは他人の生きる自由を奪うことになる。このように自由と自由は対立する。そこで社会権が生まれるようになっている。しかし、そのような概念のない日本だと、憲法を正しく理解することができないようになっている。
また、日本人にはキリスト教的な罪と罰の概念もない。その概念に一番詳しい本は、有名なドストエフスキーの「罪と罰」である。あの中で主人公は二人の人を殺してしまっているけれど、最終的にある程度の罰を受ければ、罪を背負った魂が浄化されるということを書いてある。このキリスト教の罪と罰の概念のない日本では、刑罰はただの復讐のための道具になっている。日本では昔から復讐が文化で、忠臣蔵や曽我兄弟の敵討ちが文化であった。しかも、忠臣蔵はテレビで非常に人気があって、どうやら日本の場合は敵討ちが文化のようになっている。
後は民法であるが、もともと日本人は戦前まで夜這いが文化だったところがあったり、盆踊りの後に乱交していたのだが、、民法が入ってからはそういうのも途絶えた。ただ、そういうのが良かったのか悪かったのかというのは別問題である。そういうのを議論するためには宗教に則った議論をしないとならない。
4:道徳の哲学
道徳など決めようがないのだから、心のありように依存しなければいいのではないかと思ったりする。しかし、これが仏教でいうところの空である。確かに心のありようは科学的に決定できないから、そういうものに依存しなければいい。それが仏教では色即是空と呼ばれていて、心のありように依存しないのだから、ストレスを受けるはずもない。そもそも、心のありようを延々と哲学的に考えていくのが仏教である。
また、先ほども言ったように、道徳とは宗教か感情か、多数決かで決める。ただし、どれも欠点がある。道徳のために宗教を使うと、その宗教的な考えに反するものは除外される。感情を使うと嫌いな人を殺してもいいという極論がなりたつ。多数決道徳を使うと、10人生き延びるために1人を殺してもいいという道徳がまかり通る。ただ、モーセの十戒を使えば、簡単に殺人はダメであると言える。日本などの輪廻思想のある国では、人を殺すと、殺される側に生まれ変わった時のことを考えるから殺人はダメになる。ちなみに、この輪廻思想だが、ありとあらゆる道徳を成り立たせるために非常に重要な概念である。敬虔な仏教徒は虫に生まれ変わった時のことを考えて虫すら殺せないらしい。
このように非常に重要な道徳を導くためには自分はカントと同じ立場で、何か根拠がなくても宗教を使うべきだという考えである。
また、キリスト教が人間を弱いものだから罪を犯すものととらえているのに対して、仏教ではその弱さを克服しようという立場である。キリスト教の場合は人間は弱いけれど弱いまま生きようとしているのに、対して、仏教では人間は弱いから強くなろうという立場である。
5:日本人の宗教と思想
自分は長いこと日本人の宗教と思想を神道、仏教、儒教からアプローチしてきた。しかしながら、日本人の宗教はそのどれでもないと分かり始めた。ちなみに、神道とは山、河、岩、樹などを信仰するアニミズムである。後は朱子学の研究もしてみたのだが、日本人の宗教観の根底にはそれがなかった。確かに、日本では明治維新後から戦前までは朱子学を教えていたのだが、それは天皇が一神教の神になってしまうような宗教であった。ちなみに、神道における加盟の定義は不老不死であり、日本神話では神武天皇から寿命ができてしまい神ではなくなったという記述が記紀にある。そもそも、ニニギが美人の神とブスの神のどちらかを選べと言われて美人のコノハナノサクヤビメを選んだために、神武天皇から寿命が生じてしまう。このニニギの話であるが、東南アジアに石とバナナの神話があって、それと非常に似ている。つまり、東南アジアには食料に困ったときに石かバナナどちらかを選べと言われて、バナナを選んでしまったために寿命が生じるような神話がある。また、ニニギの天孫降臨の話は中国などの大陸に伝わる神話である。
しかしながら、自分は日本人の思想を宗教社会学に求めるのはある程度やめて、民俗学的なアプローチをとることにした。それで分かったのだが、日本人は先祖霊崇拝をしているということであった。お盆やお墓参りが典型例である。実はこの先祖霊崇拝であるが、太古の中国にあった宗教で、鬼神信仰と呼ばれるものである。太古の中国というか、太古の儒教に鬼神信仰があった。実は弥生人が渡来人であったため、その信仰が日本に伝わるようになっている。縄文人は単純なアニミズムしか信仰していなかったと考古学の調査から分かるようになっている。
この鬼神信仰であるが、弥生人が紀元前300年頃に日本に輸入し、死者の埋葬方法や、古墳から日本に存在していたと分かっている。どういう信仰かと言うと、死者の霊は二つに分かれて、善い霊は天に昇って行き、悪い霊は地べたに這いつくばるという信仰である。ちなみに、ここでいう天とはお天道様が見ているの天であって、中国における一神教の神の概念である。この鬼神信仰は神道の成立過程で氏神信仰に吸収されている。もともとの鬼神信仰が変化して、先祖霊を延々と崇拝していれば、いつの間にか神になるという考えに変わり、氏神信仰に吸収されることになった。その後の日本であるが、仏教や儒教の影響を受けることになる。卑弥呼伝説のように、日本はもともと、母権的なシャーマニズムの国であった。ここでシャーマンはいたこであるが、戦前までは日本のいたるところにいた。なぜ日本が父権的な国になったのかというと、仏教や儒教の影響のせいである。昔は女性の天皇もいた。また、この鬼神信仰は仏教の影響を受けて、鎌倉時代には善い霊は仏教系の神社で祭り、悪い霊は神道系の神社で祭るという今では信じられないような宗教になっていた。日本では神道よりも仏教のほうが上と思われる時代が長く続いた。しかし、それも江戸時代になって、江戸幕府が宗門改や檀家制度を取り入れてから、今のような葬式仏教になっている。ちなみに、戦前の朱子学の時代も延々と葬式仏教をやっていたし、靖国神社など戦死者の魂を祭るという鬼神信仰に根付いた神社もある。ちなみに、悪い霊が地べたに這いつくばるので、それは怨霊などの概念になってくる。
後は、この鬼神信仰が日本の民俗学と組み合わさることによって、日本独自の思想を生み出している。例えば、日本には死のケガレという概念があるが、ここからご飯に箸を立てるなとか、おかずの箸わたしをやめろとか、靴を履いたまま外に出るなという道徳を生み出している。なぜご飯に箸を立ててはいけないかというと、葬式の時にご飯に箸を立てるのを連想するからで、おかずの箸わたしをやめるのは、葬式の時に骨を箸わたしするからである。また、昔は出棺の時に靴を履いたまま棺桶を持って家を出ていたので、新しい靴を履いたまま外に出るなという道徳がある。そのように鬼神信仰の悪い霊がケガレになっている。
ちなみに、この先祖霊崇拝であるが、読売新聞の調査で日本人の94%が信じているらしい。無宗教という人が七割の国において、実は鬼神信仰というまっとうな宗教が存在している。しかも、あまりにも長く信仰されてきたので、宗教でなく、日本の文化になってしまっている。
ただ、この鬼神信仰であるが、元には儒教が存在している。最近になって孔子研究が進み、実は論語には半分くらい鬼神信仰が書かれてあったけれど、時の権力によって消されたと分かってきた。なので、現在の日本にはまだ格差階級的な考えが残っているし、かなり封建主義的なところがある。後は村社会が残っているので、日本人は集団主義であるし、個人主義には未だなれていない。
6:まとめ
今まで、道徳と宗教の関係性を研究してきて、日本のような国は初めてであった。日本だけが宗教を教えていない国であった。通常の国ならば、嘘と分かっていても宗教を道徳のために教えている。ただ、日本のような国にも鬼神信仰という弥生時代からの宗教があることが分かってきている。それによって、日本人道徳が形成されるようになっている。このような研究は民俗学の影響が大きい。ただ、宗教を教えない国で道徳が崩壊するのは当たり前で、もうすでに日本の道徳は崩壊している。道徳が崩壊すると社会も崩壊する。実際に現在の日本では道徳も社会も崩壊している。しかしながら、日本の憲法には宗教教育をしてはいけないと書かれてあって、道徳をどう教えるのかは非常に難しい問題である。
追記
確かに自分は数年前に出版した本の中で道徳を教えるために嘘を教えてもいいと書いたが、それは宗教道徳が嘘なのだという前提に立って書いている。例えば、モーセの十戒であっても、それは人間による創作であり、絶対に正しいとは言い切れないし、根拠もない。また、仏教の輪廻思想も根拠があるわけではない。そのようなものを教えるのはかまわないと思っているだけで、それが新興宗教やカルト宗教の道徳であるのなら大反対である。例えば、道徳のために国家神道を教えるとか、江戸しぐさを教えるというのには大反対の立場である。また、アメリカの哲学のように殺人を悪と仮定して始まる哲学が絶対に正しいとも言いきれない。それはやはり、殺人が絶対悪ということは何かの理論から導かれるものではないからである。そのような意味で、哲学はまだ宗教道徳を克服してないと思っている。そのようなものを克服する手段として進化心理学があるが、自分はその学問に対してはかなり懐疑的である。進化心理学に関していえば、あれに確実な根拠はまだ見いだせないと思う。
著者紹介
澤山 晋太郎
1978年静岡県生まれ
2001年慶応義塾大学理工学部物理学科卒
2007年東京工業大学理工学研究科基礎物理学専攻卒 博士(理学)
専門は相対論
しかし、言語学や哲学の研究もしている
澤山晋太郎
澤山物理塾
澤山物理塾参考書ショップ
物理学専門書紹介
物理数学専門書紹介
科学おもちゃの紹介
高校生のための難関大に行くための参考書
3D写真や3D動画の楽しみ方
宗教社会学専門書紹介
仏教とは何か 自分なりの解釈
電子出版のすすめ
NHK名作アニメ
元探検部員が明かす究極のサバイバルグッズ
リベラルアーツの本
一般相対性理論入門
テイラー展開
電磁気学入門
微分方程式
高校数学公式集
量子力学入門
高校物理数学
宗教と道徳の関係について